Tassili memo

日々のメモ 気持ちのおもむくままに あわせて 過去の写真や文章のまとめ

白馬 サイクリング… 塩の道 関係

<塩の道 関係> 
参考 ・『塩の道 千国街道 古道案内』(白馬小谷研究社)… ほぼ、こちらの説明を写させて頂いてます。
   ・『古道 塩の道』  (府川公広 / ほおずき書籍)
   ・『塩の道・千国街道』(田中欣一編 / 銀河書房)

[p.41 栂池高原信濃森上駅]
・落倉道標 (p.32)
・瀬戸の幅 (p.32)
・おかるの穴 (p.32)

 切久保諏訪神社(p.32 切久保)… 細野・峰方の諏訪社とともに、白馬諏訪三社の一つ。別名「霧降宮」と呼ぶ。
 朱印状・鰐口・七道の面・薙鎌・絵馬など多くの社宝を有する。敬老の日には七道の神事が行われる。
 丑年と未年に小谷村戸土で行われる薙鎌打ち神事には諏訪から奉持した薙鎌が境内の「お頭の木」に安置される。

切久保庚申塚 (p.36 切久保)… 白馬村最古の庚申塚。「天和三年八月吉日信州安曇郡切久保」(1684年)の銘がある。二猿二鶏が向き合い、赤みがかった石を用い、ほっそりと長い塔身など、この時代の特徴を見せる。この後の元禄時代から各地に庚申塔が建てられた。新田から切久保の間には一里塚があったと伝えられる。

 観音原 (p.36 新田・切久保)… 江戸末期の文化年間に塩島・切久保・新田など近郷の人々によって造立された。
西国・坂東・秩父の百体観音が揃っており、馬頭観音などと合わせて187体が立ち並ぶ。高遠石工の手になるもので、出来栄えのよい逸品揃い。中央には四国八十八ヶ所霊場の象徴的な存在である弘法大師像がおかれている。その規模、内容ともに優れ、松本~糸魚川間で最大規模を誇る。

 首切り坂(・石仏群)(p.36)

・石仏群(p.36) 
 伝行山(神社)(p.36)

 専念寺
・石仏群
・枡形

・松川の渡し跡 (松川橋の上流側)

・大出吊橋

・薬師堂(p.36)
・お堂(p.36)

[p.40 白馬駅 ~ 神城駅]
空峠庚申塚 / 牛方供養塔(p.36 深空)… 深空の牛方3名により寛政2年(1970年)に建てられた。牛方名のある供養塔は大変貴重。牛方とは牛にて荷を運んだ人で、1頭の牛に塩2俵ずつつけ、一人前の牛方は牛6頭を追った。

・深空神明社(p.36)


・秋葉様(p.36)

 飯森神社(p.36)… 水神を祀る。古来雨乞いの社として知られる。八方山の八方池(古称は唐沢池)に奥社がある。雨乞いの神事の時は神社から平川上流の源太郎を経て八方池(唐沢池)へ登った。

庚申塚… 歴代の庚申年(60年に1回)に立てた。

・飯森道標(p.36)… 飯森集落から離れて北の田園地帯に飯森神社があって、その南に立つ。
「右ゑちご・左山・道」と刻む。道標は他の石造物に比べて少なく、昔の道をたどる上で貴重。


十王堂(p.37)

 白馬小谷研究社(p.37)… 長年にわたり郷土の歴史、民俗、自然の掘り起こしや研究に従事してきた地域文化研究の拠点。地域研究誌の「白馬小谷研究」の発行所。 千国街道、石仏、民俗などの研究相談に応じます。県内外の古道ルートの案内・がいど、宿泊などの紹介もいたします。(田中元二さん)

 長谷寺(飯森)… 一夜山の麓にあって、周囲を杉の巨木で囲み、遠くからもその存在が判る。
本尊は十一面観音像。本堂、庫裡、山門は素朴重厚な建築様式を伝える。(村宝) 天井裏の組柱や巨大な梁は必見。 境内に飯森城主 飯森十郎盛春の妻「光姫」の墓や多くの石造物が立ち並ぶ。
本堂裏の庭は名園をもって知られる。

・飯森南村道祖神(p.37)

・飯田北原庚申塚

飯森城址(一夜城)(p.37)… 飯森集落の裏山「一夜城」に仁科氏の支族であった飯森氏の居城跡。
城は小規模であるが、望見する格好の場所。飯森氏は武田勢を迎え撃つため、脆弱なこの城を引き払い、小谷の中谷にある平倉城に拠った。武勇を知られた飯森盛春(上杉)は抵抗すると思われたが、一晩のうちに逃亡したことから一夜山城と呼ばれた。

[p.39 神城駅 ~ 南神城駅]
・お堂(道の駅 白馬)(p.37)

・北原庚申塚(p.37)

 貞麟寺(糸桜)(p.3 沢渡7)… 弘治2年(1556年)仁科氏の支族であった沢渡氏の開基。曹洞宗。境内の糸桜は村天然記念物で、樹齢500年。春、付近の山野にカタクリが群生する。

・南原庚申塚(p.37)

 雪崩遭難供養塔(p.37)

道祖神

・十王堂 石仏群 御前山像(p.37)… 御前山像がある。糸魚川「御前山信仰」が塩とともに運ばれてきた。

二僧塚(p.37 佐野)… 西行法師がこの地を訪れたとき、二人の僧の死にあい、野辺送りをしたという西行伝説ゆかりの地。大町の大沢寺(だいたくじ)や松代の長国寺の住職であった、千丈実巌和尚による由来碑が立つ。寛政8年(1796年)の造立。高遠石工の作。

 蚕影社(こかげしゃ 神社)(p.37)⇒ 養蚕の神様として農民から信仰された。この地は明治時代、養蚕が盛んであった。 この向かいが姫川源流入口。

十二社 石仏群… 民間信仰の象徴的な出来栄えが素晴らしい石仏がひしめく。

[p.32 南神城駅 ~ 簗場駅]  
鬼石(p.40 佐野)峠から北へすぐのところ。西行法師の腰掛石だとか、鬼が四ヶ庄(白馬)をひとっ飛びしようとした時のツメ跡などの伝説がある。

・佐野坂(p.40)… 大町と白馬村の境にあり、南北の分水嶺となっている。北は姫川。南は農具川が高瀬川になり、明科まで南下した後、一転北上し、最終的には信濃川になって日本海に注ぐ。植物相も太平洋型と日本海型がここで合するという。
眼下に四ヶ庄平を俯瞰し、越後境の雨飾山は指呼の間。南からくると最初に見ることができる越後でもある。街道巡りの圧観。杉林が目立って多くなる。


西国三十三観音(青木湖西岸)(p.40 白馬村大町市境)… 佐野坂の街道に沿って点々と置かれている。文政12年(1829年)佐野村の庄屋 文五郎らの発願により建てられた。石工は高遠町杖突峠近く、片倉村の伊藤堅吉。高遠は石工を輩出したところで、足跡は中部地方全域から遠くは関東・関西にまで及ぶ。(村宝)

・青木湖南端 石仏群(p.40)
・中綱湖 北西岸 石仏群
・中綱湖 東岸 石仏群(p.40)

・中綱水神社の南 石仏群(p.40)